大分県の姫島という小さな島に観音崎という景勝地があり、そこに「千人堂」という小さなお堂があります。本尊は馬頭観世音菩薩で、私のいるお寺がお守りしており、全国的にも珍しい、露出した黒曜石の断崖の上に建てられた、みごとな眺望で知られたお堂です。このお堂には、「大晦日の夜、債鬼(借金取り)に追われた善人を、千人かくまうことができる」との伝説があります。
一目見れば分かりますが、千人どころか4人も入れば一杯になる大きさで、由来を知らない観光客からは、よく「どうして千人堂と言うのですか?」とたずねられます。この質問に答えるとき、私は次のお話をすることにしています。
浄土宗の本尊、阿弥陀仏のお名前「アミダ」は、インドの古い言葉で「数え切れない」という意味で、漢字で「無量」とも書かれ、阿弥陀仏は無量寿仏、また無量光仏と呼ばれることもあります。阿弥陀仏は無限、不滅の寿命を持ち、かつて仏になられた十劫(じっこう)の昔から現在まで、さらには仏の教えや功徳が無くなる末法と呼ばれる時まで、未来永劫、私たちを救い取って下さいます。また阿弥陀仏は光を放ち、世界の全てを隅々まで照らし、念仏する人を余さず極楽浄土へ導いて下さることから、「無量光仏」とも呼ばれます。光明というと太陽の光を連想しますが、日光と違い、障害物があっても遮られることなく、陰も出来ず届かないところもありません。
法然上人がご自作の歌で「月かげ(月の光)のいたらぬさとはなけれども」と詠じられた光も、この光明です。つまり「無量寿」は、阿弥陀仏がすすめるお念仏の功徳の、時間上の無限を表し、「無量光」は、空間上の無限を表しているのです。
最初に戻りますが、千人堂を見た人の「この小さなお堂に、千人も入れるわけが…」の質問には、無量寿・無量光のお話の後、こう付け加えています。
「実際に千人入れるという意味ではなく、馬頭観音をはじめ、それぞれの仏さまには、数え切れないくらい多くの人をお救い下さる無限の力があることを、表しているんですよ」と。
新年を迎え、お念仏の無限の功徳を思いつつ、心新たに、しっかりとお念仏をとなえていきたいものです。
( 大分県姫島村 海岸寺・阿部晃紹 )
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